人権、人が人でいるのを認めること
いつかの選挙で山本太郎氏が言っていた「あなたがあなたらしく生きてて、それでいいんだよ」というメッセージが、とても印象に残っている。たぶん2016年。
もともと山本氏はあまり応援してはいなかったけれど、このときに私の中で株が爆上がりした。木村・舩後両議員が当選した回でも、爆上がりした。これは2019年かな。
思い出①
ある日のできごと。
子どもと歩いていて、たしか長男が1歳半くらいのときだったが、通りすがりの中年男性に「働けよ!」と罵倒?されたことがある。自転車ですれ違いざま、言われた。
もしかしたら酔っていたり、唐突に人を罵るに足る何かの事情があったのか、それは分からない。(そんな事情、思いつかないが)
仕事もしないで、若くてバカな女が、小さな子どもとラクして楽しく苦労もせず生きていると、そう思われたのかな、と感じるような声だった。
そのときイラッとしながら思ったのが
「いや私フルタイムで働いてるから」
という反論。事実、フルタイム正社員で働いていて、日によっては残業して夫と息子が寝てから帰宅して家事して夕食入浴して就寝、みたいな生活で、たまたま休日にからだにむち打って息子と全力散歩していたときのできごとだった。
でも時間がたって思ったのが、
「労働していないことを批判する権利は、誰にもない」
という反論を真っ先にしたかったな、ということ。
思い出②
また別の日のできごと。
長男と次男を連れて散歩していたら、通りすがりの中年男性に舌打ちされた。たぶんベビーカーが邪魔で道が狭かったのだと思う。こちらも自転車ですれ違いざま。
やはりかなり腹が立った。
もし同じように障害物があっても、社会的地位の高い人物(えらいおじさん)が道を塞いでいたなら、その手の人はたぶん舌打ちしない。
こちらを格下の存在だとみなしている、というかそもそも十全に人として認識されていないから、舌打ちをした、はず。
脳裏をよぎったのが
「この子らが将来、あいつの年金を払うのか...」
という不快感。
ーーーー
振り返ると、自分も含めて「生産性至上主義」みたいなものに染まっている。
労働(とくに会社に勤めて嫌な思いをしたり、汗水流して苦しんで働くこと)が尊い、お金を稼げない人間には価値がない、みたいなもの。「働かざるもの食うべからず」かもしれない。
でも、人が人として存在するのに、「何かを生産できるなら」という条件付けが必要なのか。
何も生み出せない人は、社会に貢献できない人は、存在する価値がないのか。
そうではないと思う。
山本太郎氏もそう言っている。そしてそれを言ってくれる政治家は、あるいはえらいおじさんは、とても少ない。
人は、人でいる権利がある。人権を保障するのに「人である」以上の条件を求めるのは、極めておこがましい。
子どもは、子どものうちは、労働しない。大人になったら労働しそうなので、将来的な労働力ではある。
働けよおじさん、舌打ちおじさんに対しての、「働いている」とか「将来年金を払う」という反論は、生産性至上主義バトルのなかにある。
たとえば子どもじゃなくて高齢者だったり、障害があったり、何らかの理由で働いてお金を稼ぐことをしない人だって、罵倒されたり舌打ちされたりするいわれはない。
「生産性がない」という批判に、「生産性がある」という返しではなくて、「わたしは生産力じゃなくて、人です」ということを返したかった。私は、あるいは長男は、次男は、人間なのだから、あなたのその敵意を唐突に投げつけるのは不適切な行為だと。失礼ですよ!!と。そこにモヤモヤの根本があったし、とっさに頭に浮かぶのが生産性返しだったところが、自分も改善ポイントだったなと振り返った。
(なお、自転車でぱーっといなくなるのはタチが悪い。何らの反応も受け付けずに逃げるので卑怯。同じテーブルについて論破したい)
そういえば2019年夏ごろに『ケーキを切れない非行少年たち』を読んで一番衝撃だったのが、非行少年たちのサポートをすることの理由として「犯罪者ではなく納税者を増やせる」というようなことを挙げた一文。手元にないので正確な引用ができず、表現は正しくない。
これは筆者への批判では全くなくて、困っている人の困難を解決して生きやすくするための動機付けが、人権ではなく生産性でなければいけないのが、いまの日本社会なんだ、ということに驚いた。「困っているから、お手伝いする」じゃダメなんだ、予算要求するためにエビデンスを揃えないと、人が人でいることも認められないんだ、ということが、これまでだってなんとなく感じて生きていたけど、改めて目の前に突きつけられて、ぼうぜん。
技能実習生についても、人が「労働力」じゃなくて「人」だ、ということを何度も何度も強く訴えて、制度をかえていかなければならないのが、とんでもない不合理。
人は、人です。
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思い出2つに関しては、あともう一つ、「幸せそうな若い女」が憎まれるという謎もある。どうも「可愛い」がつくと、もっと憎まれるようす。
人なのに人あつかいされない問題に加えて、格下とか格上とか、序列付けの意識がありそうなんだけれど、メカニズムがわからない。
なぜ自分より優れてみえる人がいると気分が悪くなったり、自分より劣ってみえる人がいると気分が良くなったりする場合があるのか。「他人の不幸は蜜の味」はなぜ??
とくにそれを甘く感じる人と、そうでもないし不幸にしょっぱくなる人もいるのも、なぜ??
元日と、私を通り抜けるもの
2022年が始まった。
きょうの1日がなかなか現在の私を表現していた気がするし、元日というのはいつだってメモラブルなのでメモをする。
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夜間授乳で何度か起きながら、いつもと同じく7時ごろに子どもが起きたので私も起きる。
具材を入れ忘れたりちょっと焦げ付かせたりしたお雑煮や煮染めを食べて(長男は「コーンフレークがいい」というのでコーンフレークだった)、ばたばたと支度をして義実家へ。
義実家の家族はとてもやさしい。息子たる夫や孫である子どもたちだけでなく、嫁の私にも。
義実家ではおそらくけっこう高級なおせちを用意してもらって、子どもの相手をしながらちゃっかり自分の分はしっかり食べた。
途中でカフェラテ(授乳中の私用にはデカフェで作ってくれた)、アイスなどもいただきながら、長男と庭で遊んだり、ずりばいの次男を探検させて遊んだりする。
帰り道では、電車で隣のご婦人に乗り換えについて聞かれる。
曖昧な返事をしてもたもたとスマホで乗り換えを調べ始めたら、一緒にいた義妹夫婦がスマートにスムーズに調べてくれたので、それをご婦人にお伝え。
ご婦人は電車内でごきげんだった次男にみかんをくれたので、夕食後にもらったみかんを次男にむいてあげた。1個は多すぎるので、半分以上は私が食べた。
ーーー
自分は確かに存在しているのだけれど、基本的に子どもに振り回されていて、そして子どもをとりまく生活で善いものが私を通り抜けて、右から左へ、人から人へと伝わっていく。
そのおこぼれで、私も美味しいおせちやみかんを食べたりしている。
私は潤滑油、ではないけれど、透明人間とか穴の空いた器のような、媒体のような感覚が年々強まっている。小さな子どもがいるからなのか、それとも単体の私自身がそういう向きにあるのか、どちらか不明。
なれるなら、よい「土の器」になりたい。
仕事か子育てか?効率性と冗長性について考えたこと
「仕事か子育てか」
妊娠出産してから、だいたいいつも「仕事か子育てか」というようなことに迷っている。
単純化すればこの2択なのだけれど、実際にはそこまで単純じゃない。
この1カ月くらいで思ったことを書く。
効率性と冗長性
日々生活するなかで、多様なタスクをめまぐるしくこなしたり受け流したりしている。
仕事と子育て、とは別の切り口で、「効率性」と「冗長性」という二つの世界があるように感じる。
効率性は、アウトプットを最短で出すこと。生産性の高さ、単価の高い仕事、社会的インパクトの大きい仕事、オンライン会議、家事の時短テク、などなど。
冗長性は、無駄や、とりとめのない反復。ハンコをもらうためのハンコをもらうこと、終わりのない道草、たぶん食べない離乳食作り、たぶん出ないトイレトレーニング、何十回も読んだ絵本を何十一回目に読むこと。
効率性の世界と、冗長性の世界と、全然異なる価値観をもった世界の軸が2つあって、私はいつも2つの世界の間で揺れている。
おおよそ仕事は効率性の世界と、子育ては冗長性の世界と親和性がある。
ただし、仕事にも冗長性はあるし、子育てに効率性を取り入れることも可能なので、完全に重なるわけではない。
その1:子育ての冗長性を、誰が引き受けるか?
回避できない冗長性
子育て当事者以外に伝わりにくいのだけれど、子育てには圧倒的に冗長性が高い。
寝かしつけ、離乳食、トイレトレーニング、散歩、基本的に息をしているだけでこれでもかというくらい無駄に付き合いつづける必要がある。
丁寧にすりつぶして裏ごししたほうれん草ペーストを、食べずに投げられ、粛々と片付ける。
「でる」というからトイレに連れて行くも、0.5秒で「でない」と宣言するので降ろして補助便座を片付けたら、3分後にまた「でる」といってはじめに戻り。
大人なら8分の道のりを歩いて帰るのに、かれこれ40分以上かかったり。
暗唱できるまで繰り返し読んだ絵本を、きょうもまた繰り返し読んだり。
事実として、人間が育つ過程で冗長性は避けられない、必要な要素だと、少なくとも私は捉えている。
(子育て当事者以外の、社会的にはえらいおじさんなんかには、たとえ説明しても回避できない冗長性を全く理解してくれない人種がいる。「そんなの効率良くやればいいでしょ」となぜか経験0なのに指南してくるタイプの人。これは悲しい現実)
誰が担うか?
冗長性自体を無くすことはできないが、誰が担うかは選ぶことができる。
母親でも、父親でも、あるいは祖父母だったり、シッターや保育のプロにアウトソースすることも出来る。
少なくとも現代の日本社会では、母親が担うことが「普通」とされているように感じる。
ただ、冗長な部分は外部化して、効率的に子育てと関わるという選択肢もありうる。身近にも「トイトレは保育園に全部おまかせした!」といったエピソードを語るバリキャリ寄りの先輩ママがいた。
内部化して家庭で完結させるのと、外部化して家庭以外に広げるのと、どちらか一方が本質的に正しいとか善いということはないように思う。
個人の好みや向き不向きで、それぞれにベストな選択があるだろう。
その2:その冗長性は、手段か目的か
私自身は、長男についてはなんとなく「当たり前」に流され、次男についてはもうちょっと意図的に、冗長性を自分が担おうという選択をした。
荒ぶる子どもと向き合う中で気付いたのが、冗長性を手段とみるか目的とみるかの違いだ。
手段としての冗長性
例えば「同じ絵本を300回くらい読むこと」について、どういう意味づけができるだろう。
「愛着形成のため」「発達のため」といった子どもの成長の過程に必要な手段としての意味が、ひとつ挙げられる。
教育の一環として、冗長性へのお付き合いがどうしても必要なので、その必要に応じるという立場。
レジリエンス、非認知能力といった言葉も日経dualなんかでよく見かけるが、心のふんわりとした部分への働きかけの重要性は、すでに子育てに関わるあらゆる層で認められているだろう。
その働きかけ方は、効率よく生産性のあるやりかたではできないため、好むと好まざるとにかかわらず冗長性を受け入れることになる。
目的としての冗長性
他方で、冗長な時間そのものが育て手にとってもかけがえのないものになりうる。
求めに応じて300回絵本を読んでいると、自分はすでに飽きたコンテンツへの忍耐力が試されるだけでなく、子どもが膝や背中によじ登ってきたり、ずっとわめき散らしたりと「おもい」「あつい」「うるさい」のコンボで追い打ちをかけてくる。
抱っこしたときの温もりと重み、
「ウェッヒャー!」みたいな奇声じみた笑い方、
至近距離から頬にかかる吐息、
そういったのが、なんだかんだで結構よかったりする。
子どもが成長して、もう絵本を読んでと言わなくなっても、私はきっと絵本のワンフレーズに触れるだけで、おもくてあつくてうるさかった瞬間を思い出してほっこりする。
絵本だけでなく、空に飛行機をみつけたり、踏切が鳴り始めたときも、おそらくはほっこりする。
冗長性自体を目的にして、子どもと自らが向き合うという選択も、仕事をすることと同じくらい尊重されてよいように思う。
(とはいえ楽しみがあれば苦しみが消えるわけでもなく、楽しみ部分も連日だとキツい。レスパイトは絶対必要。いくら美味しくてもA5ランクの和牛を1日3食+おやつに食べ続けることはできない。出産すると年単位で絶えず口内に和牛を押し込まれ続けることになり、はじける愛に胃もたれしてしまう私は1年育休から復職でちょうどよかった)
バランスのとりかた
単純化すれば、2極になる。
①効率性:仕事/自己実現、社会課題の解決、向上、前進
②冗長性:子育て/冗長な愛、精神的充足、イマ・ココ
もし明日地球がなくなるなら、多くの人は②を選ぶのではないだろうか。
でも地球はまだ無くならないだろうし、私たちはきっと80歳くらいまで生きて、子どもや孫はそれから先も生きていく。
するとやはり①もなおざりにはできない。
子どもの進学や将来の選択肢を広げるには、お金は絶対欲しい。
それに「子どもたちが生きる世界をより良いものにしたい」という思いは、結構①につながってくる。
また子どもがいずれ手を離れれば、「Aくんのママ」ではなく「私」の比重が大きくなる日がくるだろう。家庭で過ごした年数は社会的に評価されにくく、手に職のない私は細々とでもキャリアらしきものが継続しているように装いたい。
自分の選択は?
私はとても友人が少ないのだけれど、ちょうど最近、状況が正反対の友だちと話す機会に恵まれた。
出産を機に退職して専業主婦の友だちと、結婚後も出産はまだせずにキャリアをどんどん積み上げている友だち。
2人とも、自分の進む道をはっきり選んでいて、もちろん悩みや迷いはあるのだけれど、とても輝いて見えた。キャリア的には足踏みしているゆるい正社員の私は、どちらも中途半端で、話すほどに自分の至らなさが露呈してくる。
ただ、自分自身のベストなバランスは、彼女たちどちらかのマネではありえない。
私は彼女たちではない。たとえ彼女たちのどちらかと同じ状況に身を置いても、同じような輝き方は絶対にできない。もっと働きたいとか、もっと子どもに向き合いたいとか、反対の極にいくらか傾いたところでバランスするように思う。
どれが正解とか、どれが善ということはない。
本当に人の数だけ答えがあるだろうし、ひとりの人でも時間とともに答えはどんどん変わっていく。
自分なりに家族と試行錯誤しながら、効率性と冗長性のベストバランスを模索していきたい。
着床前検査の実施容認をうけての雑感
着床前検査の実施容認がニュースになっていた。
日産婦が着床前検査の実施を容認する方針とのこと。
私自身は不妊治療は経験していないが、経験した人の話を聞きかじっただけでも、子を授かりたいという願いの切実さはひしひしと伝わるし、いっぽうで倫理的な問題として障害の排除につながりうるという点も無視できない。
この界隈はニュースを聞くたびに悩んでしまう。
まず「着床前診断」「着床前検査」「出生前診断」の名称が似ていて個人的に混乱したのだが、先の日経記事によれば「着床前検査」は「着床前診断」のうちの一つに分類されるよう。
「出生前診断」は妊娠後の検査で着床前(=妊娠成立前)の検査や診断とは別モノ。
出生前診断が「障害差別につながる」という意見に対しては、障害があったときどう育てるか社会のキャパシティが広がれば解決できると思っているのだけれど、着床前検査だと一部の病気を「異常」として排除する構図は覆せない。
でも産みたくて産みたくてどうしようもないときに、少しでも可能性を上げる技術があるならそれに頼る選択も否定できない。
実施容認に対して、賛成も反対もできない。
誰にも意見は求められていないので賛否をはっきりできなくても全く困らないのだが、いのちにどう向き合うか自分のなかで解消できないのでもやもやする。
1つ気になったのが、着床前検査が出産の可能性を上げるのかという点。
たとえばこちらの記事。
news.yahoo.co.jp
「妊娠率7割」の数字がぱっと飛び込んできてかなり可能性が上がる印象だが、きちんと読むと「60パーセント以上で受精卵に染色体異常が認められ子宮に戻すことができなかった」「受精卵を子宮に戻すことができた事例では妊娠率をあげることができた」とある。7割はあくまで条件付きでの7割。
着床前検査をしても、必ず妊娠出産できるわけではないし、可能性がどの程度上がるのかもきちんと検証が必要そう。
こちらではさらに詳しく、
・検査をうけた女性全体の出産率は17%
・一般的な体外受精での出産率は約2割
と書かれている。
検査の対象が、過去に2回以上体外受精で妊娠できなかったり流産したりした人に絞られているため、一般的な出産率と直接比較はできないが、「妊娠率7割」と「出産率17%」、いずれも事実とはいえ印象がかなり異なる。
というか私レベルでは、前者は「産めるじゃん!」後者は「産めないじゃん。。。」と真逆の印象をもった。
研究結果にいちゃもんをつけたいわけではなく、むしろ専門の方々が日夜研究されていることには敬意しかない。
ただ、不妊治療界隈はかかるコスト(費用だけでなく命の選別みたいな倫理面も含めて)に対してどうしたって成功率が見合わないように思う。
産みたいときに産めて、すべての人が主体的な意思に沿った選択をして生きていければいいのだけれど、120点満点で三方よしの解決策がないときに、個人として社会としてどういう取捨選択をするのかとか、絶対に譲れないものって何なのだろうとか、そういうことを考えた。
(ちなみに目下、家庭と仕事どっちをとるの!?みたいなことで個人として悩んでおり、現実のレベルでもなにも決められない自分がいる)
資格:簿記
とうとう簿記2級をとったので、こちらも記録として。
簿記について
簿記について
言わずと知れた日商簿記です。
受験の経緯
臨時で部内の経理担当をしていた時期があり、そのとき勉強を始めました。3級だけ合格して2級は途中でストップしていたのを、2人目育休をきっかけに再度勉強して受験しました。
(一時期は2級とったらUSCPA、経理畑に行くのもいいかも、と思ってましたがそこまではやりません)
2018年6月 3級合格、2級も申し込んでいたが、1人目つわりで勉強進まず断念
2021年6月 転職エージェント面談で、2級もとることを決意
2021年7月 勉強開始
2021年10月 2級合格
3年のブランク・デメリット
はからずも3級と2級でかなり間があいてしまい、効率悪かったです。理由としては、
- 会計制度の変更
- 出題範囲の変更
- すべてを一度忘れた
主業務は経理ではなく、2018年以降はたまに伝票起票するくらいなので、驚くほどすべてを忘れていました。
もし0からやるなら、3級と2級は一気に勉強したほうが絶対効率良いです。
3年のブランク・メリット
ただ、この期間が空いたことでネット試験(CBT方式)が選べる時代がきていました!!
ITパスポート受験時もそうでしたが、子育て中で「決められた日時に遠い会場にいって受験する」ことのハードルが高いので、ネット試験が導入され受験日時の融通がきくことに歓喜。
勉強内容とか、勉強時間を確保することもまあ大変ではありますが、受験すること自体がなかなかの困難です。
ネット試験のおかげで、長男は保育園・夫に次男を預けて、平日受験ができました。自宅を出てから帰るまで3時間弱。授乳婦でもこれなら安心。
また、受験日の変更が容易なのもありがたいです。最初は9月中の日付で申し込みをしていたのですが、緊急事態宣言が出ていて長男保育園から登園自粛要請があったため、日時を変更して10月に延期しました。
もし勉強の進みが遅かったら、ペースをみて柔軟に延期できるというのも安心材料でした。
勉強方法
ふりかえり:3級
3級受験時は以下のテキストを使いました。
スッキリわかる 日商簿記3級 第12版 [テキスト&問題集] (スッキリわかるシリーズ)
https://www.amazon.co.jp/dp/4813296122/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_61PAZJ15X0BY6VVZE9P4
テキスト兼問題集になっており、これを一通りやって(つわりでげろげろしながら)合格点はとれました。
2級 ①テキスト
3級の「スッキリわかる」は、必要最低限の説明のみでコンパクトにまとめられており、私としては2級に向けてはもう少し説明が欲しかったです。
2級ではこちらにしました。著者は同じ滝澤ななみ氏です。
みんなが欲しかった! 簿記の教科書 日商2級 商業簿記 第10版 (みんなが欲しかった! シリーズ)
https://www.amazon.co.jp/dp/4813296076/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_07EWV3SBWJXD1BQEERSJ?_encoding=UTF8&psc=1
「スッキリわかる」より「みんなが欲しかった!」のほうが私には合っていました。解説があって腹落ちしてからのほうが、暗記で片付けるより好きです。
・商業簿記 教科書
・商業簿記 問題集
・工業簿記 教科書
・工業簿記 問題集
の4冊を購入し、「まず問題集をやって、分からないところは教科書を見る」という方法で勉強を進めました。
問題集は商業、工業とも2周して、問題によっては3周目もやりました。
2級 ②Youtube
しかしテキストだけだと、商業簿記の連結会計と税効果会計が分からず、工業もなんとなく解けるけどシュラッター図の意味がよく分からない、、、みたいな状況でした。
そこでお世話になったのがYoutube。
ふくしままさゆき先生の動画で、テキストだけでは理解できなかったところを視聴しました。
教科書には載っていない内容まで説明してくださっているので、きちんと理解できるようになります。試験に合格する解答テクニックだけパパっと暗記するのではなく、内容を理解して解けるようになるための解説、という感じです。
私はテキスト一周してからふくしま先生の存在を知ったのですが、教科書ではなくふくしま先生の動画を軸に勉強するのもアリだと思います。
こんなコンテンツが無料で利用できるなんて、すごい時代。。。
3級のときから観ればよかったです。
2級 ③ネット試験対策
ネット試験ということで、形式的に不安があったのですが、上記テキスト購入者向けにネット模擬試験が公開されていたので利用しました。ありがたいありがたい。
実際に受験してみて、ほぼ同じ画面だったのであまり迷い無く解答できました。
完全に個人的な事情ですが、右手人差し指を怪我して使えないままの受験となり、電卓もテンキーもマウスも操作がつらかったので、少なくともネット模擬試験で画面には慣れて心の準備ができていたのは良かったです。
電卓
電卓は3級のときからCASIOのJS-20WKを使っています。
カシオ 本格実務電卓 12桁 検算機能 グリーン購入法適合 ジャストタイプ ゴールド JS-20WK-GD
https://www.amazon.co.jp/dp/B00VH91SMC/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_6AAMGQ849HHN47AW1PJC?_encoding=UTF8&psc=1
こちらも3級のときに電卓使えるようになろうと思ってさらっと読みました。
パブロフくんと学ぶ電卓使いこなしBOOK
https://www.amazon.co.jp/dp/4502183113/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_B78RVD0FF39G49BSBW46
右手打ちでやっていて、右手人差し指を怪我したので、ちょっと辛かったです。
電卓も、解答のためのPC操作も、下書き用紙での計算も、右手の出番ありまくりでした。
でも解答が終わらないということはなく、計算は遅いけどなんとかなりました。
試験当日
会場
会場は町のパソコン教室みたいなところで、同じ時間帯で入れ替わり立ち替わり3,4人が試験をうけていました。
到着して、本人確認、すぐに受験開始もできるし、予定時間まで勉強することもできました。
到着したときには狭くて驚いたのですが、試験官の男性も親しみやすい雰囲気の方で、少人数で壁に向かってPCが並べてあったので、集中できました。ほかに電卓使っている人がいなかったので静かでした。
ほかの方には、パチパチ電卓鳴らし続けててちょっと申し訳なかったです。
結果
96点/100点で合格でした。
第一問の仕訳でテキストに載っていなかった初見のものがあり、落としました。
試験内容についてネットに書くなと受験時の注意事項にあったので、詳細は省略します。
調べたら2級の範囲としてしっかり仕訳を紹介しているサイトもあり、もっと手広く勉強していれば取れたけれど、知らなくても合格には響かないくらいの内容という印象です。
あと一歩で満点だったので悔しいですが、とりあえず合格して履歴書に書くという目標は達成できました。
転職ねらいの勉強はこれにて一旦終了します。
2022年夏に大学院を受けたいので、院試とその後に向けての勉強に本腰をいれます。
ちなみに、卒業した学部とは別分野でいきなり苦戦中。知らない分野の勉強って、はじめは全然できなくてできなすぎて辛い、いままさにその段階です。自分がするする解答できて論文を書けるイメージが遠い。。。
とはいえ簿記もはじめはちんぷんかんぷんだったので、これを励みにコツコツ頑張ります。
第二子の出産に思うこと
またも下書き放置の記事を発見したので、とにかく公開。
書いたのは2021年7月初旬。今回は箇条書きだったので間の文章をちょっと追加した。
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またひまわりの季節になった。ちょうど流産1年後になる。
障害といのちについてぼんやりと考えることが増えた。
どうも「健康な赤ちゃん」とか「五体満足」といった言葉が耳につく。
出生前診断は、命の選別だという批判がある。同じように(いや同じではないけど)病気の有無を調べる出生後のスクリーニングに対しては、同様の批判を目にしたことが無い。おそらく出生後なら「病気があるなら育てるのをやめよう」という選択をする想定がないので、検査が命の選別扱いされていないのだろう。
出生前診断だって、病気が分かったあとに、中絶ではなく「どうやって生きるか」を考えるほうに道が大きく開けていれば、そんなに悪者扱いされなくてすむんじゃないだろうか。
診断そのものは命の選別ではないのに、診断自体がなんだかちょっと倫理的にやばいやつ扱いされて可哀そうになってしまう。
技術的な診断ではなく、障害者を排除してまわしてきた社会が、命の選別をしている主体だ。
そして私自身もその社会のなかで生きて恩恵も享受しているので、自分のなかで歯車がかみ合わない。
私にとっては、流産した子も大切な存在の一人だ。
おそらく遺伝子の異常かなにかで流産したのだが、それをもって不完全で残念な存在のように扱われるとかなり違和感がある。障害があったり元気がなかったり、産まれてこられなくたって、その人自身の存在をなるべく等身大でとらえたい。
うちの子も、おぎゃあと産まれてこなくても、数十日間は細胞分裂したりよく頑張っていた(?)んじゃないかなと。それはもちろん正期産の赤ちゃんや大人と「同じ」ではないけれど、正常な存在にいたらない不完全で欠落のある存在、というわけでもない。
(ちょっとずれるが、自分が子の可能性を損なうのは絶対にイヤだった。もともと障害をもって産まれてきたらその子なりの生き方を探しながらやっていくし、それは健常児だった場合と変わらないが、トーチ症候群やタバコ・アルコールなど、母体の行動で胎児がもっていた機能をうしなってしまうのはすごく怖い。万一があったら絶対に後悔しまくるので生ハムやナチュラルチーズなど、気付いたものは避けていた。
これはどこかで障害者差別とつながっているのだろうか。自分は差別主義者だと考えるのも、また怖くなってしまうけれど)
長生きする健常者は100、病気や障害があると70、産まれてこなかった胎児は10、みたいな存在レベルの格付けがある感じが、いつもうっすらとまとわりついてくる。
ちょっといい人っぽい言説も、よくよく聞いたら「きみは100じゃなくて10だけど、少なくたって大切な10だよ」みたいな論だったりしてがっかりする。
そもそも100とか50とか格付けしちゃう時点で、違うそうじゃない!と感じるのだけれど、うまく言語化できない。
いのちにはいろんな形があって、大きく見えたり小さく見えたりするかもしれないけど、自分が見たときの印象だけで序列をつけるのはナンセンス、なのではないかな。
すべてのいのちの尊厳が守られてほしい。
(私自身も、他者の尊厳を大切にしたいといいつつ、きっと気付かない内に踏みつけにしているんだろう、という恐ろしさも感じつつ)
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↓影響されたものなど。
映画「インディペンデント リビング」
出産直前にストリーミングで観た。めちゃくちゃ良かった。
自分は障害のある人の置かれている状況を全然知らないんだと痛感。理念や思想に行動がともなっていない自戒をこめて。
判決はなんとも。。。いまは正面切って否定も肯定もできない。
NIPT
いろんな媒体でNIPTについて目にするけれど、まとまった議論としては実はよくわかっていない。
資格:ITパスポート
きょうITパスポートを受験したので、記録として書きます。
ITパスポートについて
ITパスポートとは?
ITに関する基礎的な知識を問う国家試験。
大きく、①ストラテジ②マネジメント③テクノロジ、の3分野に分かれています。ストラテジやマネジメントについては、ITというより社会人としての基礎知識に近い内容でした。
受験のきっかけ
この試験の存在は、第二子出産後に転職エージェントとzoom面談した際、おすすめされて知りました。
どうしても必要、とか、これがあれば転職でとても有利になる、といったものではないけれど、本業で受注管理システムのノーコード開発みたいなことをやっていたので、軽く勉強して軽く資格とって、履歴書の見栄えをちょっと良くする目的で受験。
勉強方法
基本の勉強
①テキストを通読
②過去問を解く
(③たまにテキストに戻って全体像を理解)
これだけでだいたい何とかなりました。
CBT疑似体験ソフトもやってみようかなと思ったのですが、簿記でCBT対策をしていたのと大昔TOEFLも受けたしいけるだろうと、結局やっていません(が問題なかったです)。
テキスト
Amazonでベストセラー1位のテキストを使いました。
【Amazon.co.jp 限定】【令和3年度】 いちばんやさしいITパスポート 絶対合格の教科書+出る順問題集 (特典:スマホで見られる「重要用語らくらく暗記シート」)
ほかのテキストと比較していないのですが、単体で使ってみてとくに問題ありませんでした。
過去問
過去問道場にはとてもお世話になりました!!
スマホで空き時間にちょこちょこ解いていました。
間違えた問題の復習や、チェックをつけた問題の振り返りができて、正答率も確認できるので便利of便利です。
試験までに解いた問題が250問くらいで7割の正答率でした。
勉強時間
ネットで検索すると100時間とか150時間と書かれているものもありますが、たぶん30時間くらいでした。
期間は1カ月くらい?
空き時間に①テキスト通読②過去問道場、をやっていたので、さあやるぞと机に向かってやった時間は0時間です。
試験申込み
勉強より「試験に申し込んで受験すること」のハードルが高かったです。
子どもの面倒をだれかに見てもらって、試験会場までの往復時間込みで一人時間を確保する。。。子育て中ってそのアレンジメントがめちゃくちゃ面倒くさい。
長男は義実家、次男は自宅で夫が見られる日があり、時間帯も考慮しながら試験会場も隣駅で確保できたときのやり遂げた感、気持ちよかった!
結果
試験後の採点画面で、全体、3分野ともそれぞれ700点以上とれていたので合格しているかと思います。
細かい数字まで会場では覚えられなかったですが、帰宅後ログインしたら試験結果レポートでも確認できました。
あまり優秀なスコアではありませんが、受験を完遂できたことが、今後の勉強の自信になりました。
これから簿記とIELTS(と統計検定?)も受けるつもりなので、子どもを預けて試験を受けるイメージができたことが個人的には大きな成果です。