仕事か子育てか?効率性と冗長性について考えたこと
「仕事か子育てか」
妊娠出産してから、だいたいいつも「仕事か子育てか」というようなことに迷っている。
単純化すればこの2択なのだけれど、実際にはそこまで単純じゃない。
この1カ月くらいで思ったことを書く。
効率性と冗長性
日々生活するなかで、多様なタスクをめまぐるしくこなしたり受け流したりしている。
仕事と子育て、とは別の切り口で、「効率性」と「冗長性」という二つの世界があるように感じる。
効率性は、アウトプットを最短で出すこと。生産性の高さ、単価の高い仕事、社会的インパクトの大きい仕事、オンライン会議、家事の時短テク、などなど。
冗長性は、無駄や、とりとめのない反復。ハンコをもらうためのハンコをもらうこと、終わりのない道草、たぶん食べない離乳食作り、たぶん出ないトイレトレーニング、何十回も読んだ絵本を何十一回目に読むこと。
効率性の世界と、冗長性の世界と、全然異なる価値観をもった世界の軸が2つあって、私はいつも2つの世界の間で揺れている。
おおよそ仕事は効率性の世界と、子育ては冗長性の世界と親和性がある。
ただし、仕事にも冗長性はあるし、子育てに効率性を取り入れることも可能なので、完全に重なるわけではない。
その1:子育ての冗長性を、誰が引き受けるか?
回避できない冗長性
子育て当事者以外に伝わりにくいのだけれど、子育てには圧倒的に冗長性が高い。
寝かしつけ、離乳食、トイレトレーニング、散歩、基本的に息をしているだけでこれでもかというくらい無駄に付き合いつづける必要がある。
丁寧にすりつぶして裏ごししたほうれん草ペーストを、食べずに投げられ、粛々と片付ける。
「でる」というからトイレに連れて行くも、0.5秒で「でない」と宣言するので降ろして補助便座を片付けたら、3分後にまた「でる」といってはじめに戻り。
大人なら8分の道のりを歩いて帰るのに、かれこれ40分以上かかったり。
暗唱できるまで繰り返し読んだ絵本を、きょうもまた繰り返し読んだり。
事実として、人間が育つ過程で冗長性は避けられない、必要な要素だと、少なくとも私は捉えている。
(子育て当事者以外の、社会的にはえらいおじさんなんかには、たとえ説明しても回避できない冗長性を全く理解してくれない人種がいる。「そんなの効率良くやればいいでしょ」となぜか経験0なのに指南してくるタイプの人。これは悲しい現実)
誰が担うか?
冗長性自体を無くすことはできないが、誰が担うかは選ぶことができる。
母親でも、父親でも、あるいは祖父母だったり、シッターや保育のプロにアウトソースすることも出来る。
少なくとも現代の日本社会では、母親が担うことが「普通」とされているように感じる。
ただ、冗長な部分は外部化して、効率的に子育てと関わるという選択肢もありうる。身近にも「トイトレは保育園に全部おまかせした!」といったエピソードを語るバリキャリ寄りの先輩ママがいた。
内部化して家庭で完結させるのと、外部化して家庭以外に広げるのと、どちらか一方が本質的に正しいとか善いということはないように思う。
個人の好みや向き不向きで、それぞれにベストな選択があるだろう。
その2:その冗長性は、手段か目的か
私自身は、長男についてはなんとなく「当たり前」に流され、次男についてはもうちょっと意図的に、冗長性を自分が担おうという選択をした。
荒ぶる子どもと向き合う中で気付いたのが、冗長性を手段とみるか目的とみるかの違いだ。
手段としての冗長性
例えば「同じ絵本を300回くらい読むこと」について、どういう意味づけができるだろう。
「愛着形成のため」「発達のため」といった子どもの成長の過程に必要な手段としての意味が、ひとつ挙げられる。
教育の一環として、冗長性へのお付き合いがどうしても必要なので、その必要に応じるという立場。
レジリエンス、非認知能力といった言葉も日経dualなんかでよく見かけるが、心のふんわりとした部分への働きかけの重要性は、すでに子育てに関わるあらゆる層で認められているだろう。
その働きかけ方は、効率よく生産性のあるやりかたではできないため、好むと好まざるとにかかわらず冗長性を受け入れることになる。
目的としての冗長性
他方で、冗長な時間そのものが育て手にとってもかけがえのないものになりうる。
求めに応じて300回絵本を読んでいると、自分はすでに飽きたコンテンツへの忍耐力が試されるだけでなく、子どもが膝や背中によじ登ってきたり、ずっとわめき散らしたりと「おもい」「あつい」「うるさい」のコンボで追い打ちをかけてくる。
抱っこしたときの温もりと重み、
「ウェッヒャー!」みたいな奇声じみた笑い方、
至近距離から頬にかかる吐息、
そういったのが、なんだかんだで結構よかったりする。
子どもが成長して、もう絵本を読んでと言わなくなっても、私はきっと絵本のワンフレーズに触れるだけで、おもくてあつくてうるさかった瞬間を思い出してほっこりする。
絵本だけでなく、空に飛行機をみつけたり、踏切が鳴り始めたときも、おそらくはほっこりする。
冗長性自体を目的にして、子どもと自らが向き合うという選択も、仕事をすることと同じくらい尊重されてよいように思う。
(とはいえ楽しみがあれば苦しみが消えるわけでもなく、楽しみ部分も連日だとキツい。レスパイトは絶対必要。いくら美味しくてもA5ランクの和牛を1日3食+おやつに食べ続けることはできない。出産すると年単位で絶えず口内に和牛を押し込まれ続けることになり、はじける愛に胃もたれしてしまう私は1年育休から復職でちょうどよかった)
バランスのとりかた
単純化すれば、2極になる。
①効率性:仕事/自己実現、社会課題の解決、向上、前進
②冗長性:子育て/冗長な愛、精神的充足、イマ・ココ
もし明日地球がなくなるなら、多くの人は②を選ぶのではないだろうか。
でも地球はまだ無くならないだろうし、私たちはきっと80歳くらいまで生きて、子どもや孫はそれから先も生きていく。
するとやはり①もなおざりにはできない。
子どもの進学や将来の選択肢を広げるには、お金は絶対欲しい。
それに「子どもたちが生きる世界をより良いものにしたい」という思いは、結構①につながってくる。
また子どもがいずれ手を離れれば、「Aくんのママ」ではなく「私」の比重が大きくなる日がくるだろう。家庭で過ごした年数は社会的に評価されにくく、手に職のない私は細々とでもキャリアらしきものが継続しているように装いたい。
自分の選択は?
私はとても友人が少ないのだけれど、ちょうど最近、状況が正反対の友だちと話す機会に恵まれた。
出産を機に退職して専業主婦の友だちと、結婚後も出産はまだせずにキャリアをどんどん積み上げている友だち。
2人とも、自分の進む道をはっきり選んでいて、もちろん悩みや迷いはあるのだけれど、とても輝いて見えた。キャリア的には足踏みしているゆるい正社員の私は、どちらも中途半端で、話すほどに自分の至らなさが露呈してくる。
ただ、自分自身のベストなバランスは、彼女たちどちらかのマネではありえない。
私は彼女たちではない。たとえ彼女たちのどちらかと同じ状況に身を置いても、同じような輝き方は絶対にできない。もっと働きたいとか、もっと子どもに向き合いたいとか、反対の極にいくらか傾いたところでバランスするように思う。
どれが正解とか、どれが善ということはない。
本当に人の数だけ答えがあるだろうし、ひとりの人でも時間とともに答えはどんどん変わっていく。
自分なりに家族と試行錯誤しながら、効率性と冗長性のベストバランスを模索していきたい。