hanaブログ

個人的な備忘的なブログです。

人権、人が人でいるのを認めること

いつかの選挙で山本太郎氏が言っていた「あなたがあなたらしく生きてて、それでいいんだよ」というメッセージが、とても印象に残っている。たぶん2016年。

もともと山本氏はあまり応援してはいなかったけれど、このときに私の中で株が爆上がりした。木村・舩後両議員が当選した回でも、爆上がりした。これは2019年かな。

 

思い出①

ある日のできごと。

子どもと歩いていて、たしか長男が1歳半くらいのときだったが、通りすがりの中年男性に「働けよ!」と罵倒?されたことがある。自転車ですれ違いざま、言われた。

もしかしたら酔っていたり、唐突に人を罵るに足る何かの事情があったのか、それは分からない。(そんな事情、思いつかないが)

仕事もしないで、若くてバカな女が、小さな子どもとラクして楽しく苦労もせず生きていると、そう思われたのかな、と感じるような声だった。

 

そのときイラッとしながら思ったのが

「いや私フルタイムで働いてるから」

という反論。事実、フルタイム正社員で働いていて、日によっては残業して夫と息子が寝てから帰宅して家事して夕食入浴して就寝、みたいな生活で、たまたま休日にからだにむち打って息子と全力散歩していたときのできごとだった。

 

でも時間がたって思ったのが、

「労働していないことを批判する権利は、誰にもない」

という反論を真っ先にしたかったな、ということ。

 

思い出②

また別の日のできごと。

長男と次男を連れて散歩していたら、通りすがりの中年男性に舌打ちされた。たぶんベビーカーが邪魔で道が狭かったのだと思う。こちらも自転車ですれ違いざま。

やはりかなり腹が立った。

もし同じように障害物があっても、社会的地位の高い人物(えらいおじさん)が道を塞いでいたなら、その手の人はたぶん舌打ちしない。

こちらを格下の存在だとみなしている、というかそもそも十全に人として認識されていないから、舌打ちをした、はず。

脳裏をよぎったのが

「この子らが将来、あいつの年金を払うのか...」

という不快感。

 

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振り返ると、自分も含めて「生産性至上主義」みたいなものに染まっている。

労働(とくに会社に勤めて嫌な思いをしたり、汗水流して苦しんで働くこと)が尊い、お金を稼げない人間には価値がない、みたいなもの。「働かざるもの食うべからず」かもしれない。

でも、人が人として存在するのに、「何かを生産できるなら」という条件付けが必要なのか。

何も生み出せない人は、社会に貢献できない人は、存在する価値がないのか。

そうではないと思う。

山本太郎氏もそう言っている。そしてそれを言ってくれる政治家は、あるいはえらいおじさんは、とても少ない。

 

人は、人でいる権利がある。人権を保障するのに「人である」以上の条件を求めるのは、極めておこがましい。

 

子どもは、子どものうちは、労働しない。大人になったら労働しそうなので、将来的な労働力ではある。

働けよおじさん、舌打ちおじさんに対しての、「働いている」とか「将来年金を払う」という反論は、生産性至上主義バトルのなかにある。

たとえば子どもじゃなくて高齢者だったり、障害があったり、何らかの理由で働いてお金を稼ぐことをしない人だって、罵倒されたり舌打ちされたりするいわれはない。

 

「生産性がない」という批判に、「生産性がある」という返しではなくて、「わたしは生産力じゃなくて、人です」ということを返したかった。私は、あるいは長男は、次男は、人間なのだから、あなたのその敵意を唐突に投げつけるのは不適切な行為だと。失礼ですよ!!と。そこにモヤモヤの根本があったし、とっさに頭に浮かぶのが生産性返しだったところが、自分も改善ポイントだったなと振り返った。

(なお、自転車でぱーっといなくなるのはタチが悪い。何らの反応も受け付けずに逃げるので卑怯。同じテーブルについて論破したい)

 

そういえば2019年夏ごろに『ケーキを切れない非行少年たち』を読んで一番衝撃だったのが、非行少年たちのサポートをすることの理由として「犯罪者ではなく納税者を増やせる」というようなことを挙げた一文。手元にないので正確な引用ができず、表現は正しくない。

これは筆者への批判では全くなくて、困っている人の困難を解決して生きやすくするための動機付けが、人権ではなく生産性でなければいけないのが、いまの日本社会なんだ、ということに驚いた。「困っているから、お手伝いする」じゃダメなんだ、予算要求するためにエビデンスを揃えないと、人が人でいることも認められないんだ、ということが、これまでだってなんとなく感じて生きていたけど、改めて目の前に突きつけられて、ぼうぜん。

 

技能実習生についても、人が「労働力」じゃなくて「人」だ、ということを何度も何度も強く訴えて、制度をかえていかなければならないのが、とんでもない不合理。

 

人は、人です。

 

 

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思い出2つに関しては、あともう一つ、「幸せそうな若い女」が憎まれるという謎もある。どうも「可愛い」がつくと、もっと憎まれるようす。

人なのに人あつかいされない問題に加えて、格下とか格上とか、序列付けの意識がありそうなんだけれど、メカニズムがわからない。

なぜ自分より優れてみえる人がいると気分が悪くなったり、自分より劣ってみえる人がいると気分が良くなったりする場合があるのか。「他人の不幸は蜜の味」はなぜ??

とくにそれを甘く感じる人と、そうでもないし不幸にしょっぱくなる人もいるのも、なぜ??