第二子の出産に思うこと
またも下書き放置の記事を発見したので、とにかく公開。
書いたのは2021年7月初旬。今回は箇条書きだったので間の文章をちょっと追加した。
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またひまわりの季節になった。ちょうど流産1年後になる。
障害といのちについてぼんやりと考えることが増えた。
どうも「健康な赤ちゃん」とか「五体満足」といった言葉が耳につく。
出生前診断は、命の選別だという批判がある。同じように(いや同じではないけど)病気の有無を調べる出生後のスクリーニングに対しては、同様の批判を目にしたことが無い。おそらく出生後なら「病気があるなら育てるのをやめよう」という選択をする想定がないので、検査が命の選別扱いされていないのだろう。
出生前診断だって、病気が分かったあとに、中絶ではなく「どうやって生きるか」を考えるほうに道が大きく開けていれば、そんなに悪者扱いされなくてすむんじゃないだろうか。
診断そのものは命の選別ではないのに、診断自体がなんだかちょっと倫理的にやばいやつ扱いされて可哀そうになってしまう。
技術的な診断ではなく、障害者を排除してまわしてきた社会が、命の選別をしている主体だ。
そして私自身もその社会のなかで生きて恩恵も享受しているので、自分のなかで歯車がかみ合わない。
私にとっては、流産した子も大切な存在の一人だ。
おそらく遺伝子の異常かなにかで流産したのだが、それをもって不完全で残念な存在のように扱われるとかなり違和感がある。障害があったり元気がなかったり、産まれてこられなくたって、その人自身の存在をなるべく等身大でとらえたい。
うちの子も、おぎゃあと産まれてこなくても、数十日間は細胞分裂したりよく頑張っていた(?)んじゃないかなと。それはもちろん正期産の赤ちゃんや大人と「同じ」ではないけれど、正常な存在にいたらない不完全で欠落のある存在、というわけでもない。
(ちょっとずれるが、自分が子の可能性を損なうのは絶対にイヤだった。もともと障害をもって産まれてきたらその子なりの生き方を探しながらやっていくし、それは健常児だった場合と変わらないが、トーチ症候群やタバコ・アルコールなど、母体の行動で胎児がもっていた機能をうしなってしまうのはすごく怖い。万一があったら絶対に後悔しまくるので生ハムやナチュラルチーズなど、気付いたものは避けていた。
これはどこかで障害者差別とつながっているのだろうか。自分は差別主義者だと考えるのも、また怖くなってしまうけれど)
長生きする健常者は100、病気や障害があると70、産まれてこなかった胎児は10、みたいな存在レベルの格付けがある感じが、いつもうっすらとまとわりついてくる。
ちょっといい人っぽい言説も、よくよく聞いたら「きみは100じゃなくて10だけど、少なくたって大切な10だよ」みたいな論だったりしてがっかりする。
そもそも100とか50とか格付けしちゃう時点で、違うそうじゃない!と感じるのだけれど、うまく言語化できない。
いのちにはいろんな形があって、大きく見えたり小さく見えたりするかもしれないけど、自分が見たときの印象だけで序列をつけるのはナンセンス、なのではないかな。
すべてのいのちの尊厳が守られてほしい。
(私自身も、他者の尊厳を大切にしたいといいつつ、きっと気付かない内に踏みつけにしているんだろう、という恐ろしさも感じつつ)
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↓影響されたものなど。
映画「インディペンデント リビング」
出産直前にストリーミングで観た。めちゃくちゃ良かった。
自分は障害のある人の置かれている状況を全然知らないんだと痛感。理念や思想に行動がともなっていない自戒をこめて。
判決はなんとも。。。いまは正面切って否定も肯定もできない。
NIPT
いろんな媒体でNIPTについて目にするけれど、まとまった議論としては実はよくわかっていない。